お姉ちゃん、遊ぼ~弟は、フワフワ甘えんぼのビションフリーゼ~

30年以上ビションフリーゼと過ごしてきた回顧録です。日々の記録に加え、病院やトリミングなど、その他もろもろについて、情報交換がてら交流を持てたらいいな、と思っています。

【愛犬のお葬式】ジュニを天国へ送るまで~前編~

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

東京五輪まで残り30日前後。

IOCを始め、世界各国が実施する気満々ですが、その後、新型コロナウイルスの感染者などが激増しないことを祈るばかりです。

加えて、いよいよ本格的に暑くなってきました。

新型コロナの感染防止もそうですが、熱中症などにも皆さん十分お気を付けください。

 

さて、前回までは、ジュニが1か月の闘病生活も空しく、突如容態が急変し、急逝してしまったところまでを書きました。
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今回からは、私達がジュニを火葬するまでに行ったことや、当時の心境などについて書いていきたいと思います。

前回の記事の直後からの出来事を書いておりますので、愛犬や愛猫を亡くされたご経験のある方には辛い記憶を呼び起こしてしまうような記述もあると思います。

その場合は、無理に読まずに飛ばしてくださって構いません。

それでも読んでくださるという方は、下へどうぞ。

 ジュニの容態が危ない、との連絡をT先生から受けて、駆け付けた私と母だったが、あと一歩遅く、私達が病院に到着した直後に、ジュニは息を引き取ってしまった。

間に合わなかった。

最後のお別れさえ、言えなかった。

ほんの3日前まで、父に「お散歩連れて行って!」と尻尾を振ってせがんでいた程、元気だったのに…。

なんで、こんなことになってしまったんだろう。

 

まだ微かに温かいジュニの身体を抱きしめていたのは、おそらく1~2分にも満たない短い時間だったはずなのに、まるで永遠のように感じた。

T先生やスタッフさん達が、ジュニの身体を綺麗に整えてくれる、と仰ってくれたので、お言葉に甘えることにし、私と母は一旦、待合室へと戻った。

この日は平日の午後で、来院しているワンちゃんや猫ちゃんの飼い主さん達は、ほんの数組程度。

それが逆にありがたかった。

 

私は、父に連絡するため、スマホを手に動物病院の外に出た。

先程かけた番号にリダイヤルするだけなのに、指が震えていた。

 

私;

「父さん…ジュニ、天国へ逝っちゃった…ごめん…私達、間に合わなかったっ…

1人で、逝かせちゃったよ…っ…」

 

冷静に話そうと思っていたのに、言葉にしたらダメだった。

堪えていた涙が溢れ、声まで震えてくる。

自分の言葉で口にした瞬間、それまでどこか他人事のように感じていた、ジュニの死、という現実を、より強烈に叩きつけられて、受け入れたくないのに、受け入れざるを得なくなった。

 

いや、それよりももっと私を打ちのめしたのは、ジュニを1人で逝かせてしまったことだった。

先代のナナとあまりにも違いすぎる。

ナナが天国へ旅立った時、私は大学の春休み、そして土曜日だったため、父も休日で在宅だった。

最期の時間は、大好きな母の腕に抱かれ、私と両親、家族全員に見守られて逝った。

 

それに対して、ジュニはどうだ。

人一倍甘えん坊で、父にも母にも、私にも寝る時にはぴったりくっつきたがるし、家にいても同じ空間にいたがるような子だったのに、最期の時間、動物病院の狭い個室の中で、家族の誰も見送られず、1人で逝ってしまった。

 

ごめん…ごめん、ジュニ…‼ 1人で寂しい思いさせちゃって、ごめんね!

 

その後悔ばかりが胸の中に渦巻いて、父に事の経緯を報告しながらも、私は嗚咽が止まらなかった。

 

父;

「ジュニは、よく頑張ったな。お前も、母さんもよく頑張った。

これからのことは、ゆっくり考えよう。

とりあえず、ジュニを引き取って、母さんとちゃんと家に帰ること、これだけを今は考えなさい。

今日は、父さんも定時で上がって、まっすぐ帰るから」

 

本当は悲しいはずなのに、冷静に話す父の言葉に頷いて電話を切ると、さっきまで降っていた筈の雨はやみ、いつの間にか雲が晴れて、隙間から夕陽が差し込んできていた。

 

私;

(まるで道標みたい…

ジュニ、あの光に導かれて、今、お空へ向かって走って行ってるのかな…

ごめんね…ジュニ、ありがとう…)

 

雲間から射す夕陽の光が、まるでジュニの魂が天に召されていくみたいで、私はしばらくぼんやりとその景色を眺めていた。

 

それから10分ほど経って、主治医のT先生とK先生に呼ばれ、私達は個室に入った。

そこには、病院のスタッフさん達によって、綺麗に整えてもらったジュニが入った、キャリーケースがあった。

見た目は朝と何一つ変わらない。

けれど、もう中にいるジュニは、息をしていない。

撫でてあげても、呼んでも、答えてくれることはない。

到着した直後には微かにあった温もりも失われ、身体も硬直し始めていた。

 

K先生;

「私達の力が及ばず、本当に申し訳ないです。

できる限りの手を尽くしたのですが…ステージ5の段階で、ジュニちゃんの身体には、負荷がかかってしまったのでしょう」

 

私;

「いいえ、先生方の治療のおかげで、ジュニは1か月前、余命宣告の診断を受けた時よりも、一時見違えるほど元気になったんです。

目がまた見えるようになったことを自覚して喜んでいましたし、ご飯もまた積極的に食べるようになりました。

数日前だって、父にお散歩に連れて行って!ってせがんでいたんです。

先生方が手を尽くしてくれたおかげで、この1か月、ジュニは生き生きとしていました。

だから…今まで、ありがとうございました」

 

私と母は、そろって頭を下げた。

 

その後、K先生は、ジュニのお葬式についての提案をしてくれた。

先代ナナが眠るお寺の共同墓地に入れることも方法の一つだと言われたが、それは私が拒否した。

ナナの場合は、そのお寺がナナのかかりつけの動物病院から車で10分ほどの所にあり、比較的馴染みの深い土地であったことから、そこに決めた。

でも、ジュニにとってそこは、生前何の関りもない土地。

そんな所で、ジュニのお葬式をやりたくなかった。

 

今は、ナナが天国へ旅立った時よりも、ペット葬儀に関する理解や活動が広がっていて、色んな業者さんがいる。

K先生は、お力になれるなら、と、提携しているわけではないが、紹介できるペット葬儀屋さんのパンフレットを2部もらった。

 

K先生、T先生にお礼を言い、会計を終え、帰りのタクシーを病院の外で待っていると、フレンチブルと連れた女性(以下、フレブルの飼い主さん)に声をかけられた。

 

 

フレブルの飼い主さん;

「あの…こんにちは。覚えていらっしゃいますか?

2週間ほど前、待合室でお話ししたんですけれど…」

 

そのフレブルの飼い主さんには、見覚えがあった。

一度、ジュニの二度目の抗がん剤投与時だったと思うが、待合室で座席が近かった時にお話しする機会があり、その時にご家族のフレンチブルちゃんが、目の手術を午後に受けることになっていた筈だ。

あの時、大人しく母の腕に抱っこされていたジュニを、「可愛い、綺麗な子ですね」と声をかけてくれた。

 

母;

「あ…こんにちは。君は、目の手術、無事に終わったのかな?」

 

フレブルの飼い主さん;

「はい、おかげさまで。それで、あの…そちらは…」

 

母;

「残念ですが…つい先ほど、息を引き取りました…」

 

母の言葉と表情に、フレブルの飼い主さんは言葉が見つからないようだった。

それでも、悲嘆にくれる私達を覚えていて、心配して声をかけてくれたのだろう。

飼い主さんと一緒にいるフレンチブルちゃんも、目を真ん丸にして私達を見つめている。

まるで、「泣いてるの?大丈夫?」と訴えているようで、少し心が温かくなった。

 

母;

「君は、ジュニみたいにリンパ腫なんかにならないように気を付けるんだよ。

元気で、少しでも長生きしてね」

 

母の言葉に、フレンチブルちゃんは少し首をかしげて尻尾を振ってくれた。

母の気持ちが伝わったのかもしれない。

 

フレンチブルの飼い主さん;

「ありがとうございます…ワンちゃんのご冥福をお祈りいたします。

どうか、ご自愛なさってくださいね」

 

フレンチブルちゃんと飼い主さんの優しい言葉に、今はとても救われる。

改めて頭を下げ、私と母は到着したタクシーに乗り込み、帰宅の途についた。

 

さあ、ジュニ。お家へ帰ろう。

 

気が付いたら、あの余命宣告の日から1年…

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

ここ数週間で、何というか一気に暑くなってきましたね。

天候も安定しないというか、乱高下していますし、おかげで身体がついていかず、何気にバテ気味な今日この頃です。

テレワーク環境が整っている転職先であったことを感謝…。

おまけに、国内でインドで猛威を振るっているという、新型コロナの変異株が見つかるなど、中々明るいニュースがありませんね。

唯一の救いは、ワクチン接種でしょうか…オリンピックの開催云々より、正直こっちをもっと早くやってほしかったかな、とも思いますが、こればっかりは文句をいってもしょうがありません。

読者の皆様も、体調にお気をつけてお過ごしください。

 

さて、今日ブログを書いたのは、何気に母が呟いた一言がきっかけでした。

母;「そういえば、ちょうど去年の今頃だったね。ジュニが余命宣告を受けたのは…」

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 その言葉に、正直はっとしました。

転職先の慣れない業務に悪戦苦闘する中、毎日ジュニの写真や動画を見返しては、よく思い出話をしていた筈なのに、私達にとっては、戦いの始まりの日となった、あのジュニの余命宣告を受けた日から、もうすぐ1年、という実感がまるでなかったんです。

 

何回か過去の記事にも書きましたが、ジュニのことに関してだけは、やけに時間がゆっくり流れているような気がして、正直、ジュニが虹の橋を渡ってしまってから、まだ、1年しか経っていないのか…というのが正直な感想です。

 

先週には、来月は一回忌になるということで、ジュニの火葬や四十九日、秋の彼岸供養などでお世話になっているペット葬儀の方からお知らせの葉書が来ていたにも関わらず、もう10年も昔のことのように思えて仕方がありません。

 

前回の記事で、ジュニの最期の日のことを書いたせいで、少し当時の心境を思い出して凹んでいたことも影響しているかもしれませんが、ジュニがいない生活が1年続いたことで、私の中で、ジュニに関わる事象だけが、毎日の時間の流れの中で切り離されているような感覚になっている、そんな感じです。

 

私は、自分が幼少期の時から現在に至るまで、9.5割以上の時間をビションフリーゼと一緒に過ごしてきました。

私が子供から大人にまでの時間は初代のナナ、そしてナナが天国へ逝った後、4カ月ほどして我が家にやってきたジュニが1年前まで一緒でした。

そのせいか、逆にビションフリーゼがいない生活、というのに慣れていないだろうな、と自分で思います。

ついつい、動画サイトやブログなどで、ビションフリーゼを検索しては、

「そういえば、ナナやジュニもこういうことしてたな」

「ナナはこういう子だったけど、ジュニはこういう子だったね」

と家族と話したり、時には1人呟いたり、そんな日々を送ってしまいます。

 

今後どうしていくかはまだ考え中ですが、とりあえず、来月にあるジュニの1回忌をちゃんと迎えられるようにしていきます。

 

【ジュニの闘病1か月の記録】ジュニ、天国へ~後編~

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

ゴールデンウィークも折り返し地点だというのに、中々気候が安定しませんね。

 

急に曇ってきたかと思ったら、土砂降りの大雨、雷、そして突然ピタッと止まる、こんな様子を一日に数回繰り返しているので、気圧による頭痛を起こしやすい私にとっては、きついことこの上ない…

早いところ、穏やかな天気に戻ってほしい所です。

 

さて、前回の記事では、ジュニが「今日が山場」と言われ、一縷の望みを託して、ジュニを入院させたところまでお話ししました。

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 本日は、その続き、いよいよジュニの命の灯が消え、天国へ旅立った時のことを書いていきます。

当時の感情を思い出して、特に後半は乱文になっているので、ご容赦ください。

初見の方、過去に愛犬を亡くされたことのある方は、ご注意ください。

では。

ジュニを病院に預けて帰宅したのは、まだ11時前くらいだったと記憶している。

朝早く、朝食も取らず、着替えだけして出て行ったものだから、カーテンも閉め切ったままで、それだけ余裕がなかったのが、後からもありありと分かる有様だった。

 

帰宅してすぐ、私は父に電話して、状況を伝えた。

ジュニの状態は、血液、肺ともかなり悪く、今日が山場であるということ、

現在、病院で、高濃度酸素で満たされたケージの中に入っていること、

最悪を覚悟しないといけない状態であり、もしかしたら死に目に会えないかもしれない、ということ…

要点だけ絞って伝えようとすると、改めてジュニの容態が深刻であることが分かって、どうしても声が震えるのが止められなかった。

 

その後、万一病院からコールがあった場合、すぐに気付けるように着信音を最大に設定し直し、私と母は、ただひたすらジュニが無事に帰宅できることを願いながら、まんじりともできずに、時間が過ぎるのを待つしかなかった。

 

そして、お昼過ぎ13時頃。

望まない電話がかかってきてしまった。

 

発信先を見た母は悲鳴を上げ、「やだ、やだ、やだ!ジュニっ‼」と叫び、受話器を取ることができずにいた。

 

私は母にすぐ出かけられるように、タクシーの手配を別途してくれるよう頼み、代わりに受話器を取った。

相手は、T先生だった。

 

T先生

「ジュニちゃんの容態ですが、数分前から大きく痙攣しだして、かなり危ない状態です。すぐに病院のほうに来られますか?」

 

その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、先代ナナが逝った時の記憶がよぎった。

ナナも亡くなる直前、大きな痙攣をしていた、と母が言っていたことがある。

これは、もう…

 

私は目を閉じて深呼吸した。

T先生に、すぐに母と向かいます、と告げ、電話を切ると、貴重品だけ持って、私達は家を飛び出した。

 

けれど、待ち合わせに指定した近くの公園で待つこと、10分経っても、中々タクシーが来ない。

いつもなら、10分以内に来るのに。

今は、1分1秒でも惜しいのに。

ジュニが待ってるのに。

何で、こんな肝心な時に限って、早く来ないんだろう…!

 

母はいても立ってもいられない様子で、少しでも、手配したタクシーが見つけられるように、バス通りの方へと歩いて行った。

私も急いて急いて仕方がなかったが、黙って待つことに耐えられなかったんだろう、気付いたら、再び父の職場の番号に電話をかけていた。

 

電話に出た父に、

  • 先程T先生から、「危ないので、来てください」との電話があったこと、
  • 今から母と二人で行くけれど、最悪ジュニの死に目に間に合わないかもしれないこと
  • それでも、ちゃんと家にジュニを連れて帰ること

を告げた。

 

「分かった。病院に到着して、どんな形でもいいからジュニを引き取って帰る段階になったら、また連絡をくれ」

 

父は、私からの電話を受ける前に、もうジュニに生きて会うことはできない、と半ば覚悟を決めていたようだった。

それくらい、静かな声だった。

 

電話を切った直後、ようやくタクシーが到着した。

ここから、動物病院までは約10分。

それまで、ジュニの命はもってくれるだろうか。

 

(ジュニ、待ってて。お姉ちゃんとママ、今行くから。1人で、逝かないで。

神様…‼)

 

隣で震えている母の手を握りながら、私は必死で祈っていた。

 

もう助からないなら、せめて最期の瞬間には寄り添ってあげたい。

T先生達がいるとはいえ、全員は揃っていなくても、ジュニの家族として、見送ってあげたい。

だから、ジュニ、まだ逝かないで。

 

信号待ちの瞬間を、あんなにじれったく、もどかしく思ったことはない。

折しも、この日は曇りがちで、小雨が降ったり止んだりを繰り返していた関係で、結構車の出が多く、いつもは空いている道でも所々渋滞が発生していた。

何で、よりによってこんな時に…!

 

やっとのことで病院に到着して病院に駆け込むと、私達の顔を見た受付のスタッフさんがすぐにT先生を呼びに行き、私達は個室に通された。

何とか、間に合ったんだろうか?

 

そう思った次の瞬間、個室に入ってきたT先生は、申し訳なさげに頭を下げた。

 

T先生:「ジュニちゃんの心臓が、今しがた止まりました…」

 

一瞬、何を言われたのか、分からなかった。

ジュニの心臓が、止まった…?

 

T先生

「本当に、つい今しがたです。ご家族の皆さんが到着された直後でした…

お会いになりますよね…?」

 

:「…連れてきてください、お願いします…」

 

母の言葉に、T先生が頷いて出ていくのを、私は、ただ茫然と見ていることしかできなかった。

 

正直、この時の記憶はあいまいで、私自身はっきり覚えていない。

唯一覚えていたのは、激しい自責と後悔の念だけだ。

 

間に合わなかった。

ジュニを、たった1人で逝かせてしまった。

 

家で見送ることは叶わずとも、少なくとも私と母は、最期の瞬間を看取ってあげたかったのに。

 

ちゃんとジュニの顔を見て、最後には

「家に来てくれて、一緒に楽しい時間を過ごしてくれて、ありがとう。大好きだよ」って伝えてあげたかったのに。

 

それなのに…!!

 

 

お別れの言葉さえ、かけてあげられなかった。

ジュニに、最期の最期家族の顔を見られないまま逝って、寂しい思いをさせちゃったんじゃないのか?

こんなことなら、病院近くのホテルを取って、そこで待機していればよかった。

そうすれば、せめて、ジュニをたった一人で逝かせることなんて、なかったのに!!

 

T先生がジュニを連れて戻ってくるまでのほんの数分の間、ただひたすら自問自答を繰り返していたような気がする。

ドアが開いて、抱っこされたジュニを見た瞬間、私は無意識に手を伸ばし、ジュニの名を呼んでいた。

 

;「ジュニ!お姉ちゃんだよ…本当に、よく、頑張ったね…っ」

T先生;「本当に、つい今しがただったんです。だから、まだ身体も…」

 

T先生はその先の言葉が続けられなかったようだったけれど、私にはT先生が言わんとすることが分かっていた。

抱っこしたジュニの体は、まだ温かく、柔らかかった。

本当はまだ生きているんじゃないか、と思えるほどに。

けれど、もう腕の中のジュニは、呼吸はしていない。

私の呼びかけに答えることもない。

この温もりも、あと数10分もすれば冷たくなってしまうし、同時に硬直していってしまうだろう。

まだ、ジュニの温もりが感じられるうちに、と私は、母にジュニを抱っこして渡した。

 

「ジュニ!ジュニ、ごめんね!ママが、もっと早く、ジュニのリンパ腫に気付いてあげられてたら、こんな苦しい思い、しなくてよかったのに‼」

 

母はもう、ジュニの身体を抱きしめて、むせび泣くことしかできない状態だった。

 

2020年7月14日 ジュニ 永眠

 

私にとって、2人目の弟が逝ってしまった日だった。

 

【ジュニの闘病1ヶ月の記録】 ジュニ、天国へ~中編~

皆さん、こんばんは。
歩です。

早いもので、気が付いたらもう5月。

世の中はゴールデンウィークでありながら、コロナの変異種による感染者数増加抑制を見据えた緊急事態宣言のため、職場の同僚は

「休暇じゃなくてただの引きこもりじゃん、こんなの…」

とぶーたれていました。

ただ我が家は、

「基本的にゴールデンウィークは、大掃除と衣替え」

と相場が決まっているため、実はあまり影響を受けていない、という今日この頃です。

さて、今日から暫くはブログ更新にゆっくり時間をかけられそうでしたので、前回に引き続き、ジュニの闘病生活における最期の日のことを書き上げていこうと思っています。
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初見の方、あるいは過去に愛犬を亡くしたことがある、という方は、ご注意ください。

では。



翌朝7時。

ジュニの容態が気になって、ろくに眠れていなかったが、目覚ましが鳴るよりも早く目が覚めてリビングに行くと、父も母も何やら深刻そうに話していた。

父の話では、明け方の5時近く、ジュニが嘔吐したのだという。

昨日から呼吸が苦しそうで、水分以外殆ど口にしていないため、固形物を吐いたわけではないが、それ以降、あれほど激しかった呼吸はすっかり静かになり、身体の力が抜けたようになってしまった、とのことだった。

そっとジュニを触ると、心なしか、いつもより体温が冷たい気がする。

嫌な予感がした。

単に熱が下がった、という割には、ジュニの体がやけにぐったりしているのだ。

いつもなら、母に抱っこされている時も、自分の足で踏ん張り、両前足を肩にかけてくるのだが、今回は明らかに違う。

両手足の力がなく、ただ全身を母に預けているだけ。

顔をあげることすらしんどそうだった。

母;「ジュニ?ジュニ!死んじゃだめええええっ‼」

母が、明らかに様子がおかしいジュニの様子に取り乱している。

父も気が気でないようだったが、生憎今日は会社のテレワークで、出勤日に当たっていた。

遅刻寸前のぎりぎりの時間帯までジュニの様子を見、いつものように、「ジュニ、パパ行ってくるぞ」と声をかけて出勤していった。

この時の父は分かっていたんだろうか。

この瞬間が、父と、ジュニの今生の別れになってしまった。

取り乱す母の横で、私は時計の針が8時になったのを確認し、いつもお世話になっている動物病院に電話をかけた。

診療開始は9時からだが、事前に病院内の掃除、消毒などの関係で、スタッフさん達が8時ごろからいるのは分かっていたからだ。

繋がった電話を取ってくれたのは、幸いにも主治医のT先生だった。

ジュニの容態を説明し、診療時間前だけれど、至急診てもらえないか、と伝えると、すぐに連れてきてください、とのことだったので、私はすぐにタクシーを手配し、着替えを済ませて母と一緒に動物病院へ急行した。

タクシーの中でも、ほんの1週間前なら、「ママ!お姉ちゃん!僕お外が見たいよ、出してよ!」とクインクイン鳴いていたのに、今日はずっと、キャリーバッグの中でぐったりと伏せたまま、起き上がる様子もない。

これはおかしい。

私の頭の中で、警告めいたものがよぎった。

動物病院に着くと、既にT先生が手配してくれていたのか、すぐに診療室に通された。

キャリーバッグの中でぐったりしているジュニの様子を診て、T先生の顔が明らかに曇った。

一瞬で良くない状況を察したんだろう。

レントゲンと、血液検査をするので、お待ちください、と言われ、待合室で待つこと、10分程度。

再び診察室に入った私達に告げられたのは、辛い現実だった。

T先生;「結論から言ってしまいますと、はっきり言ってジュニちゃんの容態は悪いです。今日が山場だと思ってください」

言われることは覚悟していた。けれど、一気に体の奥底が冷えたのを自覚せずにはいられなかった。

T先生が、ジュニの容態を「悪い」と判断した材料は2つあった。

1つ目が、ジュニのレントゲン写真。

ほんの2日前、ジュニの呼吸数が早くなり、診療時間外に診てもらった時に撮ってもらったものとは異なり、肺の辺りに、広範囲にわたって白い影が映っていた。

これは、ジュニが明らかに重い肺炎症状を起こしていることを指していた。

そしてもう1つが、血液検査の結果。

ほんの3日前、3回目の抗がん剤投与の前に行った血液検査と比較すると、

WBC (白血球数):38.0 → 159.0 (基準値内だが、大幅増加)
GOT (肝機能) :17.0 → 114.0 (基準値上限を大幅に逸脱)
GPT (肝機能) :72.0 → 85.0 (基準値上限を逸脱)
ALP (肝機能) :575 → 655 (基準値上限を逸脱)
BUN (腎機能) :25.3 → 89.2 (基準値上限を大幅に逸脱)
CRE (腎機能) :0.62 → 4.42 (基準値上限を大幅に逸脱)
CRP (急性炎症) :<0.9 → 17.8 (基準値上限を大幅に逸脱)

どこにも、いい要素が見当たらない。

たった3日の間に、こんなにも、ジュニの容態は悪化してしまった。

2日前の夜は、まだ、そんな予断を許さないような、切迫した状態ではなかったのに。

なんで、こんな、急に。

頭が追い付いていかなかった。

T先生の話では、今日1日、持ちこたえられれば回復の見込みが見えてくる、とのことだった。

ただ、そのためには入院しなければならない。

万一、持ちこたえられそうにない場合は、すぐにでも連絡するが、最悪の場合、死に目に立ち会えない可能性もある。

T先生:「どう、なさいますか?」

万一の場合は、私達が到着するまでの間、延命措置である心臓マッサージなどをして、時間を稼ぐことはできる、と説明されたものの、それは母が拒否した。

心臓マッサージは、される側がとても痛くて苦しい思いをするものだから、そんな辛い思いをジュニにしてほしくない、という母の決断だった。

結果、私と母は、一縷の望みをかけて、ジュニを託すことにした。

ただ、万一のことを考えて、一旦家に引き上げる前に、個室のジュニに面会することにした。

いつも入院する時に入っている個室ケージではなく、肺に炎症があって、思うように呼吸ができないワンちゃん用に作られた、高濃度酸素が供給されるケージに入っていたジュニは、既に前足に点滴をされ、ケージの奥の方に大人しく座っていた。

けれど、面会に来た私達を見つけると、さっきまで力なく座っていた様子とは違って、そっと立ち上がり、こちらに向かって歩み寄ってきた。

私:「ジュニちゃん、お姉ちゃんだよ。また、夜に迎えにくるからね。一緒に帰ろうね」

ケージに取り付けられた穴から両腕を入れて、ジュニの頭から背中をそっと撫でてやる。

ジュニの顔を両手で包み、擦ってやると、いつものように気持ちよさそうに目を細めてくれた。

ただ、ケージに遮られて、いつものように、ジュニの大きな黒い鼻に自分の鼻をくっつけてあげられない。

それが、無性に悲しくて、寂しくて、たまらなかった。

これが、最後になるかもしれないのに。

それが、とてつもなく怖くて、中々手が離せなかった。

そんな私の後ろで、母はずっと泣いていた。

私が「母さんの番だよ」と言って代ろうとすると、頑なに首を横に振るばかり。

もし今、ジュニに声を掛けたら、撫でてあげてしまったら、ジュニが死んでしまう、そう思っていたのかもしれない。

母としては、「ジュニは絶対帰ってくるから、今、声かけたりしなくても大丈夫だから…!」と必死に自分に言い聞かせていたんだろう。

けれど、もしこのままジュニが亡くなってしまったら、絶対母は後悔する。

何であの時、声をかけてあげなかったんだろう、何で、撫でてあげなかったんだろう、って、絶対に自分を責め続ける。

そう思った私は、あえて母に言った。

私:「ジュニ、立って母さんのこと探してるよ、ほら」

そっと背中を支えてケージの方に押し出すと、母に気付いたジュニがやはり鼻をケージの傍に近づけてきた。

家を出た時とは違い、わずかではあるが、立って、歩いている。

その姿に、少し勇気づけられたのか、母はようやくケージに手を伸ばし、ジュニを撫でた。

母:「ジュニ、ママ待ってるからね。帰ってきてね…っ!」

この時、ジュニはどう思っていたんだろう、と今でも思う。

これ以上ここにいても、出来ることはない、あとは、希望を信じて待つしかない。

ジュニ、またあとで迎えに来るからね。一緒に帰って、パパのお出迎えしようね。

そう告げて、後ろ髪を引かれる思いで、私と母は退室した。

姿が見えなくなるその瞬間まで、私はジュニの目を見つめ、手を振り続けた。

私と母が退室するまでに掛かった時間は、おそらく10分かそこら。

けれど、この時のことは、忘れようとしても忘れられるはずがない。

これが、私達と、ジュニの今生の別れになってしまったからだ。

お空にいるジュニへ、15歳の誕生日おめでとう

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

中々タイムリーな更新ができず、気付けば新年度の4月も、もう1/3は過ぎてしまいました。

緊急事態宣言は明けたとはいえ、会社の方針でほぼ8割がた在宅で仕事をしている私は、今年の桜を完全に見損ねてしまいました…。

早く新型コロナの猛威が収まってほしいところですが、まだまだ先は長そうです。

皆さんも、体調お気をつけて、お過ごしください。

 

さて、3月上旬に、我が家はジュニの春彼岸の法要に出向いてきました。

そして折しも、3月はジュニの誕生月。

もし今も元気でいれば、今年で15歳になっていました。

 

ジュニの魂が家に帰ってくる時期だし、きっと喜ぶから、お誕生日を祝ってあげよう、という話をして、前日からあの子の遺影にお供えしている花を新しくしたり、当日に供えするご飯を、あの子が好んで食べていた、母特製のカボチャコロッケにしてあげよう、とか色々話していました。

 

すると、ここ最近、ジュニが急に話しかけてくるようになった、と母が打ち明けてきました。

具体的な例としては、

・新しくお供えする花として、ピンク色のチューリップを買ってきて活けたら、突然

「ママ、僕この花好きだよ!」と花瓶の傍から顔を出していた。

 

・カボチャコロッケの準備をしていたら、急に足元に来て、

「ママ、ジャガイモはもっと細かくしてくれると嬉しいな~」

とか、言っているそうです。

 

母は元々霊感が強いらしく、先代ナナが亡くなった時も、よくこうして、

「ナナがね、この間母さんのところに来て、こんなこと言っていたよ」

と話してくることがありました。

 

ナナが亡くなった当時の私は、ナナの魂と話すことも、その存在を感知することもできなかったのですが、今は、ジュニと会話まではできないものの、何となく、

「あれ、もしかしてジュニ…?」

と感じる時があります。

 

具体的には、匂いや温度、時には音や視界などで普段とは違う感じがする、と言った具合なのですが、母も、ジュニの声が聞こえる時は同じようなものを感じると言うので、少しはあの子の気配を感じ取れているのかな、と思っています。

 

元々甘えん坊だったから、しょっちゅう魂は家に帰ってきているのかもしれません。

それが、自分の誕生月と春彼岸が重なったことで、なおさら話しかけてきたんじゃないのかな、と少し微笑ましく思いました。

 

ジュニの誕生日当日、ワンちゃん用のケーキとカボチャコロッケをお供えすると、一緒に遺影を飾っているナナに取られまいと頑張りながら、尻尾を振って大好きなご飯を食べている、そんなジュニの姿を見たような気がして、私はそっと呼びかけました。

 

「ジュニ、お姉ちゃんの可愛い、2人目の弟。15歳の誕生日おめでとう。大好きだよ」

【ジュニの闘病1か月の記録】ジュニ、天国へ~前編~

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

緊急事態宣言も明けて、気が付けば卒業式、入学式シーズン。

春めいて、桜も満開に近づく中、新型コロナウイルスの変異型が猛威を振るい始めそうですね。

皆さま、引き続き体調にはご注意ください。

 

さて、ずいぶん長いこと開いてしまいましたが、本日は、ジュニの容態が急変した夜から、あの子が天国へ旅立つまでの記録を振り返りたいと思います。

 

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結構、当時の心境も載せておりますので、読まれると辛い思いをされる方もいらっしゃるかもしれません。

その場合は、無理して読まずにここでお引き返し下さい。

大丈夫な方のみ、下へどうぞ。

ジュニを緊急夜間診療に連れて行ってから帰宅した私達。

相変わらず、ジュニの呼吸は早い。

けれど、体温は通常の犬の平熱の範囲に収まっているため、このまま様子を見ようという話になった。

それでも、私は妙な胸騒ぎを押さえられないでいた。

 

こんな風に苦しそうにしているジュニを、見たことがない。

全身を震わせ、まるでしゃっくりがとめどなく襲ってきているような、浅く速い呼吸がずっと続いている。

食事も水分も取らず、じっとして、襲ってくる衝動に、ただただ耐えているような姿に、傍で見守っていることしかできないことが、もどかしくて仕方がなかった。

 

本当に大丈夫なんだろうか?

明日、朝一で病院に連れて行ったほうがいいんじゃないんだろうか?

 

そう思っていたが、私達は決断を下せないでいた。

その原因は、翌日が、運の悪いことに、この日はジュニの主治医であるT先生、K先生がいずれも休診であるということ。

この日の担当は、M先生だったが、私達はこの先生を今一つ信用していなかった。

 

数年前、ジュニは夜の散歩中、ガードレールに耳をぶつけて、耳の骨を骨折し、内部の血管が損傷して、耳たぶの中に血だまりができてしまったことがあった。

この時、診てくれた外科のO先生は、耳たぶの中にできた血だまりを注射器で抜いた後、治療薬を逆に投入するという方法で治療してくれていたのだが、一度だけ、この処置が綺麗にされなかったことがあった。

その時の担当者が、他ならぬM先生だったのだ。

その経緯があって、M先生にジュニを診てもらうのは不安だった私達は、

  • 「ジュニを無理にでも連れて行って、M先生に診てもらうか」
  • 「もう1日待って、確実にT先生、またはK先生に診てもらうか」

の2拓で迷い、結果、T先生とK先生が担当日の明後日まで待つことにした。

 

今振り返っても、この時の判断が正しかったのか、間違っていたのか、分からない。

翌日になっても、ジュニは平熱でこそあったものの、相変わらず呼吸は早いし、食欲もない。

辛うじて、水分だけはシリンジで流し込んでやると飲んでくれたが、もう立ち上がって動く気力もないようだった。

 

本当に連れていかなかくていいのか?

でも、連れて行って、かえってジュニの負担になってしまったら?

 

何が良くて、何が悪いのか、見えない霧の中を歩いているようで、落ち着かなかった。

父も母も、まんじりとしない様子で、ずっとジュニについていた。

 

時計の針が真夜中近くになっても、私はジュニのことが心配で、中々寝室に下がることができなかった。

ジュニの背中をさすり、手を握り、頭を撫でながら、

「ジュニ、もう少しだよ、朝が来たら、母さんと病院に連れて行ってあげるからね」

と何度声をかけたか、分からない。

そうやって声をかける度に、ジュニが答えるように目を開けて、視線を合わせてくれることだけが、唯一の救いだった。

 

明日は、T先生もK先生もいる。

並ばなくて済むように、病院が開く前に、到着できるようにしておかなければ。

 

父がジュニを看ていてくれると言うので、私はせめて体を休めようとベッドに横になったが、中々寝付けなかった。

 

きっと、大丈夫だから。

お願いだから、早く朝になって。

心の中で、着実に膨れ上がる、ジュニの死、という予感を必死で振り払いながら、私は眠りについた。

東日本大震災から10年、ジュニはあの日、震えてた

皆さん、こんばんは。

歩です。

亀更新にも関わらず、身に来て下さる皆さん、本当にありがとうございます。

コメント頂いている方も、返信が遅くなって申し訳ありません。

ですが、皆様から頂いたコメントは全て目を通しております。

ありがたいです。

 

少し出遅れてしまいましたが、先週の木曜日、3/11は10年前、東日本大震災、そしてそれに伴う福島第一原発事故と、日本を未曽有の大惨事が襲った日でもありました。

 

黙祷の鐘が鳴り響いた時、私はリモート会議中でしたが、敢えて音声をミュートにして、祈りを捧げました。

何回か、東日本大震災で被災した人のその後、という特集番組などを目にすることがありましたが、被災して、一時的に飼い犬を預けて離ればなれで暮らさざるを得なくなったご家族や、津波に巻き込まれて亡くなった飼い主の傍で、保護されるまで鳴き続けていたワンちゃんの話を聞くたびに、涙が止まらず、冥福を祈らずにはいられなかったものです。

 

幸い、私の家族や友人などはみな無事でしたが、あの地震の日は、今でも思い出すと背筋が寒くなるようなものがあります。

今日は、あの震災の日、私達家族とジュニがどう過ごしていたのかについて、ちょっと書きたいと思います。

 

2011年3月11日

私は大学の研究室、父も仕事で、日中東京にいた。

私も父も、大抵19時までには帰宅し、リビングのドアから玄関を覗き込むジュニの出迎えを受ける、この日もそんな日常が待ってると思っていたあの日。

東日本大震災が起こった。

 

大学の全体指示による緊急避難をした後、構内の安全確認ができたために研究室に戻った私は、この日は、電車が動かず、帰宅できないだろうと踏んでいた。

下手に動くと、余震による建物崩壊などに巻き込まれて、怪我を負う可能性がある。

じっとしているのが吉、と判断した私は、研究室に泊まることを即決、さっさとコンビニへご飯を買いに行ったものの、家にいる母とジュニのことが心配でたまらなかった。

 

地震が発生してから3時間後、母が、研究室直通の電話に連絡してきて、ようやく母とジュニ、そして父が無事であると分かった。

父も、私と同様、帰宅困難と判断して、今日は会社に泊まると先に連絡してきたという。

家のほうも、本棚や食器棚が開いて、中のものが飛び出して散乱したものの、建物倒壊や火災、停電などもなく、避難指示も出ていない、と聞いて安堵した。

 

ただ、ジュニは、相当怖がって震えている、と電話口の母は言っていた。

甘えん坊で寂しがり屋のジュニは、初めて体験することには慎重になるといった、少し臆病なところがある。

電話してきた当時、ジュニは、自分を抱っこする母の膝から降りようとせず、ずっとブルブル震え、不安そうに鳴いていたらしい。

 

後で聞いた話だと、地震発生時、今まで経験したことのない大きな揺れと音に、ジュニは必死に逃げようと窓のほうに向かっていたという。

ようやく揺れが収まって、近くで火災が起きていないか確認のために母が窓を開けた瞬間、ジュニがベランダに飛び出したために、かなり母は焦ったらしい。

ところが、遠くにある石油コンビナートから火災が発生しているのを目にした途端、ジュニが部屋に駆け戻ってきたと、言っていた。

 

日が暮れて、いつもなら帰ってくるはずの私と父が帰ってこないことも、ますますジュニの不安をあおったようだった。

時折やってくる余震、遠くで見える石油コンビナートの赤い炎、そして伝わってくる母の不安、色んなものが重なって、ずっと怖かったんだろうと思う。

事実、普段なら「お腹空いた!」という時間になっても、夕飯を食べようとはせず、普段ならソファでヘソ天で寝るところを、母が膝から降ろそうとすると、「降ろさないで‼」とばかりに、強くしがみついてきて、一睡もしなかった、と母は言っていた。

 

翌朝、電車がようやく動く、という情報をラジオで入手した私は、朝一番の電車に乗り込み、帰路についた。

家にたどり着いたのは、朝の10時近くだったように記憶している。

「ただいま」と声を上げて、玄関ドアを開けた瞬間。

ジュニが今までに見たことがないくらい、ものすごい勢いでリビングから飛んできた。

「ジュニ!ただいま、怖かったね、頑張ったね!」

正直、徹夜と気疲れでダウン寸前だったが、尻尾を振って全身で喜びと安堵を表現するジュニを抱っこして、目一杯ほめた。

初めての体験、人間の私達でも恐怖する大震災、ジュニにはもっと怖かったに違いない。

それとも、もしかして私と父がこの大震災に巻き込まれて、何かあったんじゃないかと心配していたのかもしれない。

私が帰ってきて、ようやく安心したようだ、と母は言っていた。

それくらい、私が帰ってきたあとも、私にべったりして離れようとしなかった。

私が軽食を取っていると、思い出したかのようにジュニも食事をとり、私が仮眠しようと部屋に向かうと、一緒についてきて、ベッドに上がり、全体重を私に預けて横になった。

 

「よしよし、昨夜は怖かったんだね。よく頑張った、えらいよ。少し一緒に休もうね。もう少ししたら、父さんも帰ってくるから」

そう声をかけて、ずっとジュニを撫でていたような気がする。

横から、ジュニが熟睡モードの入った時に出す、長い鼻息を聞いて、ようやく私も寝付くことができたのを今でもよく覚えている。

 

そして、夕方頃に、ようやく電車が空いたと言って、父が帰宅。

家族が全員揃ったことに安堵したジュニは、やはり尻尾をブンブン振りながら父を出迎え、その後は父にべったりだった。

それでも、数日は、私や父がどこかに出かけたり、余震がきたりすると不安そうな顔をすることが多かったから、よほどあの時の経験が怖かったんだろうと思う。

 

でも、きっとあの日、ジュニ以上に怖い思いをしたワンちゃんや猫ちゃんは沢山いて、命を落としてしまった子たちも相当数いる。

運よく助かったものの、その後、震災以前の暮らしに戻れずにいる子たちもいる。

震災によって、心に傷を負った動物たちにも、寄り添ってあげられれば。

私にとって、3月11日は、それを思い出させる日となっている。

新型コロナによる自粛期間中に目にしたニュースにショック・・・

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

相変わらずの亀更新で済みません。

ここのところ、母の通院に付き添ったり、私自身が長期間のリモートワークによる運動不足からへばり気味になったりで、中々ブログのほうにまで手が回らずにいました。

 

来週の日曜日には、またジュニの供養がありますので、それまでには体調を整えておきたいと思います。

 

さて、今日ブログを更新しようと思ったのは、ちょっとショッキングなニュースを目にしたことがきっかけです。

そのニュースとは・・・

「新型コロナによる自粛の影響で、保護犬・保護猫の数の増加」というものです。

 

新型コロナ流行による感染拡大を防ぐために、自粛やリモートワークが推奨されている今、自宅で過ごす時間が増えたために、新たにワンちゃんや猫ちゃんを家族として迎えるご家庭が増えたという話は耳にしていました。

 

それ自体は別に構わないのですが、一方で保護犬・保護猫のボランティアの方々が明かしている、

「ここ2,3ヶ月間の保護される保護犬、保護猫の数が、2年前に比べて明らかに2,3倍近くにまで増えている」

という事実に、非常にショックと怒り、そして悲しみを感じています。

 

しかも、一緒に暮らしていた子たちを手放す理由を聞いてみると、

いざ飼ってみたら、

  • 先代の犬と相性が合わない
  • 子供が飽きた
  • 思った以上にお金がかかる上に、世話がかかる

などなど、どれもこれも手前勝手な人間の理屈ばかり。

聞いていて、反吐が出そうでした。

 

私がビションフリーゼと一緒に過ごし始めたのは、2歳の頃。

ディズニー映画のピーターパンが大好きで、その作中に登場する「ナナ」というお世話犬に憧れてか、外で会う大型犬や小型犬を可愛がる私を見て、両親は犬を家族として迎えることを決めたそうです。

そうして初めて我が家で迎えたのが、初代のビションフリーゼ、ナナでした。

それ以来、私はナナが17歳で亡くなるまでの間、姉弟として一緒に過ごしていましたが、その間両親が度々口にしていた言葉があります。

 

それは、

「一度家族として迎え入れた以上、絶対に最期まできちんと面倒を見る。

 それが、飼い主としての責任だから」

というものでした。

 

当時、まだ小学生だった私にはその意味がまだピンときていませんでしたが、今思えば、両親は「命あるものを預かることの責任」というものを、きちんと理解していて、それを私に教えてくれていたんだろうと思います。

ですから、こうして折角家族に迎えたはずのワンちゃんや猫ちゃんを、捨ててしまう、という行為は、私からすると「家族を捨てる」という残酷極まりない行動に思えてしまいます。

 

「相性が悪いから仕方ない」「金銭的な都合が合わないから仕方ない」

「子供が飽きたから仕方ない」・・・

 

人間側からすると、きっともっと沢山の「仕方がない」があると思います。

 

けれど、どんな「仕方がない」という理由でも、それで納得できるのは人間側であることを、ワンちゃんや猫ちゃんを捨てる人は自覚してほしい。

 

「僕は、私は、家族じゃないの…??」

 

捨てられるワンちゃんや猫ちゃん達が、言葉に出せない悲痛な気持ちを抱えていることなどに、微塵も気づかない、下手したら気付こうともしていない、そんな軽々しさが透けて見える無責任極まりない飼い主が、最近とても多くなったように感じています。

 

 

私の周りには、愛犬家、愛猫家の人たちも多いですが、中には、

「最後まで面倒見切れる自信がないから、犬や猫は好きだけれど、飼わない」

と公言している友人もいます。

そんな友人を、偽善者呼ばわりする人もいるのですが、私はこの友人の考え方がとても好ましく思っています。

命を預かる立場として、最後まで面倒を見切れるかを慎重に判断したが故の結果だと思うからです。

 

新型コロナによる自粛の影響で、悲しい思いをする捨て犬や捨て猫がこれ以上増えることがないよう、心から願ってやみません。

皆さんはどう思いますか?

よければ意見いただけると嬉しいです。

 

 

 

リモートワークが続く中で思うこと

皆さん、こんばんは。

歩です。

1月も最終日、緊急事態宣言が再発令されて早3週間になりますね。

 

少しずつ、本当に少しずつ、新型コロナの新規感染者数は減少傾向にありますが、

まだまだ重症者数や死亡者は増加傾向にあります。

大変な状況の中、必死に治療にあたって下さっている医療従事者の方には、

本当に感謝しかありません。

皆さんも、どうぞ体調に気を付けてお過ごしください。

 

私は、会社の方針で、緊急事態宣言が発令された翌日から、ずっと在宅でのリモートワークをこなしていました。

明日2月以降はオフィスに出勤することもあるようですが、少なくとも緊急事態宣言が解除になるまでは、そんなに頻繁な回数、出ることもないようで、そのことは少しほっとしています。

どうしても怖いのは、自分がかかることよりも、家庭内感染ですからね。

 

しかし、この頃youtubeで動画などを観ていると、在宅勤務で家にいる時間が多くなった分、一緒に暮らしているワンちゃんや猫ちゃんが、「お部屋に入れて!」とアピールしたり、お昼ご飯を食べようとすると「ずっと待ってたんだよ!遊ぼうよ!」と甘えてきて、中々ご飯が食べられない、と、嬉しい困りごとが多発しているのが散見されます。

 

「もし、ジュニがリンパ腫も治って元気にしていたら、きっと歩が在宅勤務していても、お姉ちゃん入れてよ!って、同じようにアピールしていただろうね」

と、母は言います。

 

私も同感でした。

ジュニは、私が大学に在籍中、休日に、テスト勉強やレポートに追われて部屋に籠っていると、必ず私の部屋に来て、

「お姉ちゃん、いるんでしょ?開けてよ!」

とアピールするのが常でした。

大抵は、私の部屋の前に陣取って座り、通りがかった両親がドアを開けていれてあげるといったスタンス。

しかし、両親が家事をしていたり、DVD鑑賞などでリビングにいたりする場合は、そのアピールは段々強硬手段的なものに。

 

①ドアの前で、鳴く。

②前足の片方で、軽くドアを引っかく。

③反応がなければ、今度は強めに前足でドアを押す。

④それでもダメなら、後ろ足で立って全体重を前足にかけてドアにアタックする。

⑤最終手段として、鳴きながら前足両方を使って、ドアを引っかく

 

⑤までやられたことは殆どありませんが、よく私がリラックス用の音楽をイヤホンで聴いていたり、昼寝していて気付かなかった時などは、④までの段階をあの子はよくやっていました。

うっかり昼寝していて、ジュニがドアにアタックする、「ドン!」という音にびっくりして飛び起きたことも、1度や2度じゃありません。

その度に、「ああ、ジュニだ、これは…」と寝ぼけながら起き上がり、ドアを開けると、

「姉ちゃん、遅いよ!早く気付いてよ!」

と言わんばかりに入ってきて、我が物顔でさっきまで私が寝ていたベッドの上にあがり、丸くなって眠る、というのがお約束でした。

 

新型コロナ流行の影響で、リモートワークを余儀なくされている今、もしジュニが存命だったら、

「お姉ちゃん、毎日家にいるなあ。じゃ、今日も姉ちゃんのところで寝よう」

と、私が仕事に必要なスキル習得に四苦八苦しているのを横目に、きっと、ベッドで大の字になって寝ていたんだろうな、と容易に想像できてしまいます。

それだけ、あの子との思い出が、日々のちょっとしたことの時間の濃密さと比例して蘇ってくるのを、ここ最近改めて実感しています。

 

ジュニ、本当に、たくさんの思い出と優しい時間をくれて、ありがとうね。

 

 

 

早いようで、長かった6か月~少し変わった私の心持

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

中々更新できなくて、済みません。

新しい職場での研修で、ここ2週間、基礎・応用をみっちり叩き込まれていたため、予習復習に時間を取られ、ブログのほうにまで手が回りませんでした。

 

しかし、そんな中で、ジュニが昨年の7月に旅立ってから6回目の月命日を迎えました。

母が、

「ジュニ、今日はお前の月命日だから、お前の好きなカボチャの天麩羅作ったよ。ナナと仲良く分けて食べなさい」

といって、お供えしていました。

母の作るカボチャの天麩羅が大好物だったジュニ。

あの子が逝ったのが、ほんの半年前だなんて・・・まだ実感がわきません。

 

緊急事態宣言のため、テレワークを余儀なくされている私ですが、それでも勤務終了と同時に、リビングに飾ってあるジュニと、先代のナナの写真に向かって、

「ジュニ、ナナ、お姉ちゃん、疲れたよ~~」

と思わず話しかけてしまいます。

あたかも、あの子たちが生前、学校や仕事を終えて帰ってきた私を出迎えてくれた時にしていた行動を、今もなお無意識にしてしまっているのです。

 

父も、毎朝出かける時には、「ナナ、ジュニ、父さん、仕事に行ってくるぞ」

毎晩寝る前には、「お休み、また明日な」と二人の遺影に声をかけています。

 

母も、朝起きてきた時や、買い物から帰ってきた時、愚痴を言う時、必ずナナとジュニの遺影に向かって話しかけています。

 

姿がなくても、大切な家族として聞いてくれている、そう思わないと中々心がついていかないのかもしれません。

転職して、新しい環境で奮闘する中、急激に私の周りの時間が流れ始めました。

転職先が見つかるまでは、コロナ下での就職難に焦る気持ちがありましたが、それでも日常生活はゆったりと流れていて、ジュニの急逝と向き合う時間がかなり長かったこともあり、振り返れば、普通に

「お姉ちゃん、構って!」

と綺麗な両目を真ん丸に開いて、尻尾を振っていた、ジュニがいるような気がしていました。

 

だから、朝起きた時に、

「あ、いけない。ジュニがリビングで待ってる!」

と思って朝食を作りにリビングに行って、誰もいないのを見て、

「ああ、そうだった。ジュニは、もう逝っちゃったんだ・・・」

と凹んだことも何回もありました。

 

今もその気持ちはあります。

ただ、私の中で少しだけ心持が変わったような気もしています。

上手く伝わるかは分かりませんが、仕事が終わって帰路に着く時、

「ナナとジュニが待っている家に帰ろう」

と思い、帰宅すると、「ナナ、ジュニ、ただいま!」と言える。

もう出迎えてくれる姿は見えないけれど、ここにナナとジュニはいる。

 

そんな感じがするんです。

もしかしたら、これは私のひとりよがりな思いかもしれませんが、そうやって私や両親がナナとジュニのことを思い出すたびに、二人が家に帰ってきてくれている、

そんな心持で今は過ごしています。