お姉ちゃん、遊ぼ~弟は、フワフワ甘えんぼのビションフリーゼ~

30年以上ビションフリーゼと過ごしてきた回顧録です。日々の記録に加え、病院やトリミングなど、その他もろもろについて、情報交換がてら交流を持てたらいいな、と思っています。

【ジュニの闘病1か月の記録】ジュニ、天国へ~後編~

皆さん、こんばんは。

歩です。

 

ゴールデンウィークも折り返し地点だというのに、中々気候が安定しませんね。

 

急に曇ってきたかと思ったら、土砂降りの大雨、雷、そして突然ピタッと止まる、こんな様子を一日に数回繰り返しているので、気圧による頭痛を起こしやすい私にとっては、きついことこの上ない…

早いところ、穏やかな天気に戻ってほしい所です。

 

さて、前回の記事では、ジュニが「今日が山場」と言われ、一縷の望みを託して、ジュニを入院させたところまでお話ししました。

 lymphoma.hatenadiary.com

 本日は、その続き、いよいよジュニの命の灯が消え、天国へ旅立った時のことを書いていきます。

当時の感情を思い出して、特に後半は乱文になっているので、ご容赦ください。

初見の方、過去に愛犬を亡くされたことのある方は、ご注意ください。

では。

ジュニを病院に預けて帰宅したのは、まだ11時前くらいだったと記憶している。

朝早く、朝食も取らず、着替えだけして出て行ったものだから、カーテンも閉め切ったままで、それだけ余裕がなかったのが、後からもありありと分かる有様だった。

 

帰宅してすぐ、私は父に電話して、状況を伝えた。

ジュニの状態は、血液、肺ともかなり悪く、今日が山場であるということ、

現在、病院で、高濃度酸素で満たされたケージの中に入っていること、

最悪を覚悟しないといけない状態であり、もしかしたら死に目に会えないかもしれない、ということ…

要点だけ絞って伝えようとすると、改めてジュニの容態が深刻であることが分かって、どうしても声が震えるのが止められなかった。

 

その後、万一病院からコールがあった場合、すぐに気付けるように着信音を最大に設定し直し、私と母は、ただひたすらジュニが無事に帰宅できることを願いながら、まんじりともできずに、時間が過ぎるのを待つしかなかった。

 

そして、お昼過ぎ13時頃。

望まない電話がかかってきてしまった。

 

発信先を見た母は悲鳴を上げ、「やだ、やだ、やだ!ジュニっ‼」と叫び、受話器を取ることができずにいた。

 

私は母にすぐ出かけられるように、タクシーの手配を別途してくれるよう頼み、代わりに受話器を取った。

相手は、T先生だった。

 

T先生

「ジュニちゃんの容態ですが、数分前から大きく痙攣しだして、かなり危ない状態です。すぐに病院のほうに来られますか?」

 

その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、先代ナナが逝った時の記憶がよぎった。

ナナも亡くなる直前、大きな痙攣をしていた、と母が言っていたことがある。

これは、もう…

 

私は目を閉じて深呼吸した。

T先生に、すぐに母と向かいます、と告げ、電話を切ると、貴重品だけ持って、私達は家を飛び出した。

 

けれど、待ち合わせに指定した近くの公園で待つこと、10分経っても、中々タクシーが来ない。

いつもなら、10分以内に来るのに。

今は、1分1秒でも惜しいのに。

ジュニが待ってるのに。

何で、こんな肝心な時に限って、早く来ないんだろう…!

 

母はいても立ってもいられない様子で、少しでも、手配したタクシーが見つけられるように、バス通りの方へと歩いて行った。

私も急いて急いて仕方がなかったが、黙って待つことに耐えられなかったんだろう、気付いたら、再び父の職場の番号に電話をかけていた。

 

電話に出た父に、

  • 先程T先生から、「危ないので、来てください」との電話があったこと、
  • 今から母と二人で行くけれど、最悪ジュニの死に目に間に合わないかもしれないこと
  • それでも、ちゃんと家にジュニを連れて帰ること

を告げた。

 

「分かった。病院に到着して、どんな形でもいいからジュニを引き取って帰る段階になったら、また連絡をくれ」

 

父は、私からの電話を受ける前に、もうジュニに生きて会うことはできない、と半ば覚悟を決めていたようだった。

それくらい、静かな声だった。

 

電話を切った直後、ようやくタクシーが到着した。

ここから、動物病院までは約10分。

それまで、ジュニの命はもってくれるだろうか。

 

(ジュニ、待ってて。お姉ちゃんとママ、今行くから。1人で、逝かないで。

神様…‼)

 

隣で震えている母の手を握りながら、私は必死で祈っていた。

 

もう助からないなら、せめて最期の瞬間には寄り添ってあげたい。

T先生達がいるとはいえ、全員は揃っていなくても、ジュニの家族として、見送ってあげたい。

だから、ジュニ、まだ逝かないで。

 

信号待ちの瞬間を、あんなにじれったく、もどかしく思ったことはない。

折しも、この日は曇りがちで、小雨が降ったり止んだりを繰り返していた関係で、結構車の出が多く、いつもは空いている道でも所々渋滞が発生していた。

何で、よりによってこんな時に…!

 

やっとのことで病院に到着して病院に駆け込むと、私達の顔を見た受付のスタッフさんがすぐにT先生を呼びに行き、私達は個室に通された。

何とか、間に合ったんだろうか?

 

そう思った次の瞬間、個室に入ってきたT先生は、申し訳なさげに頭を下げた。

 

T先生:「ジュニちゃんの心臓が、今しがた止まりました…」

 

一瞬、何を言われたのか、分からなかった。

ジュニの心臓が、止まった…?

 

T先生

「本当に、つい今しがたです。ご家族の皆さんが到着された直後でした…

お会いになりますよね…?」

 

:「…連れてきてください、お願いします…」

 

母の言葉に、T先生が頷いて出ていくのを、私は、ただ茫然と見ていることしかできなかった。

 

正直、この時の記憶はあいまいで、私自身はっきり覚えていない。

唯一覚えていたのは、激しい自責と後悔の念だけだ。

 

間に合わなかった。

ジュニを、たった1人で逝かせてしまった。

 

家で見送ることは叶わずとも、少なくとも私と母は、最期の瞬間を看取ってあげたかったのに。

 

ちゃんとジュニの顔を見て、最後には

「家に来てくれて、一緒に楽しい時間を過ごしてくれて、ありがとう。大好きだよ」って伝えてあげたかったのに。

 

それなのに…!!

 

 

お別れの言葉さえ、かけてあげられなかった。

ジュニに、最期の最期家族の顔を見られないまま逝って、寂しい思いをさせちゃったんじゃないのか?

こんなことなら、病院近くのホテルを取って、そこで待機していればよかった。

そうすれば、せめて、ジュニをたった一人で逝かせることなんて、なかったのに!!

 

T先生がジュニを連れて戻ってくるまでのほんの数分の間、ただひたすら自問自答を繰り返していたような気がする。

ドアが開いて、抱っこされたジュニを見た瞬間、私は無意識に手を伸ばし、ジュニの名を呼んでいた。

 

;「ジュニ!お姉ちゃんだよ…本当に、よく、頑張ったね…っ」

T先生;「本当に、つい今しがただったんです。だから、まだ身体も…」

 

T先生はその先の言葉が続けられなかったようだったけれど、私にはT先生が言わんとすることが分かっていた。

抱っこしたジュニの体は、まだ温かく、柔らかかった。

本当はまだ生きているんじゃないか、と思えるほどに。

けれど、もう腕の中のジュニは、呼吸はしていない。

私の呼びかけに答えることもない。

この温もりも、あと数10分もすれば冷たくなってしまうし、同時に硬直していってしまうだろう。

まだ、ジュニの温もりが感じられるうちに、と私は、母にジュニを抱っこして渡した。

 

「ジュニ!ジュニ、ごめんね!ママが、もっと早く、ジュニのリンパ腫に気付いてあげられてたら、こんな苦しい思い、しなくてよかったのに‼」

 

母はもう、ジュニの身体を抱きしめて、むせび泣くことしかできない状態だった。

 

2020年7月14日 ジュニ 永眠

 

私にとって、2人目の弟が逝ってしまった日だった。